青雀の散歩未知

未知なる日常のあれこれ綴り。

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心配というラベルの恐怖 




「心配」というのは自己正当化されやすい。

相手を思いやっているから、とか、みんなのために、とか、やさしさからとか、もっともらしい言訳ができる。
ちなみに、ここで言っている心配というのは「過剰な心配」のことだ。
特に人間関係、とりわけ親しい関係でおこること。
親が子に対して起こりやすいことでもある。

過剰な心配というのは、実は相手を心配しているのではなく
恐怖の妄想に同化した状態のこと。
もちろん、その根っこには自然なレベルでの心配はあるのだが(それがややこしいところだが)
恐怖心によって、言い方を変えれば執着心によって
あれこれと起きてもいないことを次々と想像し、それに恐怖し、相手と自身をがんじがらめにしてしまうことだ。
実際のことではなく、妄想に恐怖しているこの状態を解消するため、自分の安堵を得るために
それを提供してくれている実際の相手を、自分を、環境をコントロールしようとすることだ。
そこにあるのは、自己中心性。
中心の目が恐怖だ。

この恐怖に同化した精神はすべてを固定に向かわせようとする。
中心の恐怖以外はすべて安堵を得るための手段、モノと化す世界だ。
恐怖は安堵を求めているわけだが、それとはうらはらに、相手を抑圧し、自分自身をも抑圧し、身動きを取れなくする。
恐怖のエネルギーはとても強く、大きな拘束、抑圧を生む。

現象は動く。自由に動こうとする。自発的に。
それは個人的に制御できるようなものではなく、恐怖のパワーよりもはるかに甚大であるから
恐怖によって一時的に身動きの取れない状態になっていても、その状態は必ず破壊される。遅かれ早かれ。
予期せぬ出来事で。そして大きなダメージを残す。

この恐怖というものは、なかなか自覚されにくい。というか、これに同化している時は全く自覚できない。
ただ兆候は出る。身体に。気分に。自他に。
疲労、目詰まり感、息苦しさ、傲慢さ、批判、人のせいにすること、興奮、停滞、キレやすさ、対立。
単純に、恐怖によってエネルギーが束縛されているために、動こうとするエネルギーが苦しむのだ。
それでも、恐怖に同化している時はなかなか気づけない。
その根本を見る前に、目先の快楽で一時的なごまかしをし続けるのも気づけない要因だと思う。
あるいは恐怖を理解するために何かから学んでいる、というその行為自体で恐怖の作動を隠している場合もあるだろう。
あるいは恐怖は幻想である、という呪文で幻惑し続けている場合もあるだろう。
あるいは恐怖する私はそもそも存在しないという呪文で幻惑し続けている場合もあるだろう。
あるいは、ひたすらに他者や社会のせいにすることで、恐怖を継続させている場合もあるだろう。
あるいは、愛を対象化し、それと一体化することで恐怖から逃れようとする行為自体が恐怖の働きそのものである場合もあるだろう。
いろいろあるだろう。
いわゆる逃避。
恐怖から逃避するための様々な行為である。

なぜこの恐怖が作動するのか。
親との関係もあるだろう、社会との関係もあるだろう、気質的なものもあるだろう、これと特定できるものはないだろう。
その原因を追及しても何もならないだろう。
唯一、この恐怖が停滞、不自由さ、破壊を生んでることだけが事実だ。
世界で起きている様々な紛争、歴史的になんども繰り返している対立、殺りく、支配、コントロール。
これは遠くのことではなくて、まさに「ここ」で、この身の中で起きていることでもある。
精神の混乱による自己防衛機能の誤作動、肥大化なのかもしれない。

破壊は弱いところで起こる。
無垢なところで起こる。
自他において。

それゆえに、というか、その痛烈な痛みで、やっと気づきはじめるのである。
そのくらい恐怖は精神を鈍感にし、気配を消し、粛々と作動するのである。

他者のことはわからない。
これはすべて僕自身の日常で起こった経験である。

備忘録として。
自分自身へ。



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