青雀の散歩未知

未知なる日常のあれこれ綴り。

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見るものと見られるものという枠組み 





IMG_20141214_135509.jpg


そこにりんごがある。
りんごはそれを見ている自分、つまり「見る者」がいるから見えている。
りんごは「見られるもの」という認識の枠組み。
日常で起こる様々な「断片的」な活動は、この認識の上で成り立っている。
私とあなた、私と社会、世界、彼女。。

しかし当てはまらないものもある。

全体に対しては。

刻刻の経験全体は、それを経験している自分がいるからだ。
自分はからっぽの空間であり、無であり、そこに起きてくる様々な経験が通り過ぎてゆく。

自分とはからっぽの空間であるという認識。

これも上に書いたものと同じ認識パターン。
見る者と見られるものという相対認識。
経験と経験が起こる場としての自分という。

認識が起こるのは事実だが、認識そのものは断片。
認識の断片性が理解されれば、見る者と見られるものなどもともと存在しないことが顕わになる。

J.クリシュナムルティが「見るものは見られるものである」と言ったのは
言葉を使って事実を表現したものなんじゃなかろうか。
見る者というその認識自体が断片だぞと。
その結果、見るものと見られるものという認識にとっては、わけのわからない文脈になってしまい神秘的な響きを纏ってしまったのだろう(笑

とか、ふと思った。

EOS Mのデザイン、いいね。


thread: にちじょー | janre:  |  trackback: -- | 本文: 0 | edit

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